KnowRun

VARIATIONS

SuperCub

f:id:KnowRun:20210505151607j:plain

I want your superlove

I wanna be inside your superlove

I need the spirit with the sexual

I wanna be inside your superlove

Lenny Kravitz - Superlove

現在大好評放送中の「スーパーカブ」は非常に面白いアニメだ。といっても、わかりやすい面白さがあるわけではない。

3人殺したカブを破格で売るバイク屋の親父や過剰に”奪われている”主人公など攻めた設定はあるものの、(4話の時点で)基本的にはカブに乗って山梨を走り回っているだけである。もっといえば高校生なので学校の往復がメインになる。演出も驚くほど静かだ。わかりやすい起伏がないのに面白いと感じる、ことを面白いと感じる。

僕は森博嗣スカイ・クロラ」にこの作品との相似と差異を見出した。 「スカイ・クロラ」では少年少女(”キルドレ”と呼称される)が戦闘機に乗ってショーとしての戦争を戦う日々を送るが、そうでないとき、つまり平時の主人公はスクーターに乗って移動している。スクーターに乗り、ミートパイを食べ、ボウリングを行い、女を買うわけだが、まったく楽しそうではない。ゴーグルを買うだけで得意気になる小熊さんとは大違いである。

キルドレは地上で起こっていることに興味を持たず、ただ空を飛ぶことだけに執心している。戦闘機で自由に空を飛び、空で殺されることを願っている。飛んでいる間だけは、あらゆるものから自由になれるのだという切実な想いが、彼らを空へ向かわせる。カブに乗っているときだけ世界に色がつく小熊さんとの共通点といえるかもしれない。

その「スカイ・クロラ」の終盤にこんなモノローグがある。

少なくとも、昨日と今日は違う。
今日と明日も、きっと違うだろう。
いつも通る道でも、違うところを踏んで歩くことができる。
いつも通る道だからって、景色は同じじゃない。
それだけでは、いけないのか?
それだけでは、不満か?
それとも、それだけのことだから、いけないのか。
それだけのこと。
それだけのことなのに……

押井守によってスカイ・クロラは映画化されたが、非常に渋い評価となっている(実は私もそうだ)。それはこの作品が「日常系」だというギミックに誰も気付けなかったからだ、という考察がある。ずっと空を飛び続けられるわけではない、だから「地に足を着けて」生きなければならない……という力強くネガティブなメッセージがあったのかもしれないが、それを伝えたかった人には届かなかったのだろう。

スーパーカブでは、常に地に足が着いている。もしかしたら今後小熊さんが空を飛ぶことがあるかもしれないが(礼子なら飛びかねない)、そうだとしても日々の生活から彼女の物語が乖離することはないだろう。小熊は生活(通学)に必要だから、という理由でカブを購入しているので当然ともいえるが、だからこそ物語に説得力がある。自分の生活が少しずつアップデートされていく達成感は誰しも感じたことがあるはずだからだ。このあたりは「キャンプのために原付を購入した」彼女と大きく違う(優劣ではない)。

スーパーカブゆるキャン△とともに確実に日常系をアップデートした。本作品が今後どう展開(?)されるのかは不明だが、ゆっくり彼女たちの続きを見守っていきたい。

 

追記(2021/5/16):その後、5話では礼子による富士山アタックが行われ、6話では小熊が修学旅行にカブで現れた上に礼子と2人乗り(免許の取得日から考えて違法である)をするなど、前述の(「地に足のついた、静かな」)内容と反するテイストになっている。やはりアニメは未だにわからないな……と反省することしきりである。

 

追記(2021/5/29):現在、本作品はその外側でも内側でも大炎上中である。外側には興味がない(関係者に恵まれない作品だと思う)が、作品内で違法行為を行う/ローカルルールやマナーを守らないということに関しては書く必要があるだろう。

僕の見解では、カブに乗ることが手段か目的かというところに尽きると思う。小熊さんはカブに乗ることが「目的」であり、友人との出会いはその副作用に過ぎない(現時点で大切な存在かどうかは関係がない)。だとすれば、その目的に対して社会が設定したルールを守らないというのは愛するカブに対して不誠実ではないだろうか。そういった点で、彼女がルールを破った(前段階で先生の忠告も無視した)ことは残念といえる。

現時点(8話まで放送)でスーパーカブには3人の主要人物が登場するが、3人とも若干社会性が欠如している(礼子はマシな方であるが、あくまで「マシ」である。恵庭椎ちゃんは体制側といえるが敵を作りやすいタイプだ)。彼女たちがシステムにささやかな抵抗を試みる方法としてタイヤが二つ付いた乗り物があるわけだが、ルールを破った時点で戦いは正当性を失う。彼女たちがどこまで正しく乗れる/生きられるかが本作品の分水嶺になるだろう。

 

追記(2021/6/24):本アニメは最終回を迎えた。9話からここまでさらに怒涛の展開が続き、もはや最初に書いた感想とは程遠い地平に到達した。恵庭椎(とその親)との交流、暴力的で非社会的な人命救助、(GoTと見紛うばかりの)冬との壮絶な戦いなどが続き、最後は冬を越えて春を捕まえる(そして元いた場所に戻る)という素敵で詩的なエンドを迎えた。この追記を書いていて想起したのは、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」という映画だ。

マンチェスター・バイ・ザ・シー」ではケイシー・アフレック演じる男の再起の第一歩が描かれる。この映画も冬から春にかけての話で、主人公の兄の人生が冬に終わり、主人公の人生が春にまた始まるという構成になっている。展開がなだらかでないところ、軽犯罪が頻繁に行われ、ややモラルに欠けるやりとりがなされるところ、「できないことはしない(が、少しずつ挑むことはできる)」というテーマなどは、スーパーカブに通じるところがあるかもしれない。

f:id:KnowRun:20210624142110j:plain

主人公は自分にできない(過去を乗り越えられない)ことを認め、それでも甥のためにできることを探して懸命に取り組む。これも、冬を消すことはできないと認め、椎のために春を捕まえに行こうとする小熊さんに近いところがある。自分の無力を認めること、その上でできることを懸命にやること、これが生きるということなのかもしれない。

長い記事になったが、書いていく上でいろんな発見があった。決して手放しで褒められるアニメではなかったけど、プリミティヴな感情がそこにあったことは事実だ。自分にもまだ感性が残っていることを感じられたので、いい視聴体験だったといえるだろう。